越知 正憲 医師とはどんな人?
名古屋で最新の高度生殖補助医療を行う医師、越知 正憲とはどんな人物なのでしょう?今日は、その人柄にふれてみました。
医療では、診療過程からいい結果へと導くことが最優先されるため、合理的な振る舞いから得てしてドライにみられがちな医師たち。
越知先生もその一人で、中にはそのドライさから怖いと思われる方もいらっしゃるようです。
でも、実はとても繊細で人情深く、温かみもあり、男のロマンや茶目っ気もたっぷりの人物です。さっそく、その生い立ちからうかがってみましょう。
生まれは…
先生のお生まれは、この名古屋市?
「いえ、僕が生まれたのは大阪でね。昭和33(1958)年12月11日のこと。父は産婦人科医、母は薬剤師で、父が勤める病院で生を受けたんだ。 兄弟は妹が1人で、耳鼻科医をしているよ。それで、幼稚園に入る年に愛知県豊橋市に引っ越してきたんだ。(現在は名古屋市内在住)」
幼稚園~小学校時代
子どもの頃は、どんなお子さんでしたか?
「世間の男の子がそうであるように、わんぱくで乗物好きでね
中でも車が大好きで、世界の名だたる名車のプラモデルを作っていたよ。作るプラ模型のほとんどがスポーツカーで、それをよく走らせては遊んでいたね。大人になった今でも、車は好きだよ」
今は車のどんなところが好き?
「スポーツカーに乗って運転することも楽しいけど、スポーツドライビングという用途だけを追求して誕生したその造形美や機能美に包まれているということが心地いいんだよね」
なるほど、医療というまた違ったフィールドで高度な技術を常に追求している越知先生だからこそ共感できる職人としての何かがそこにあるのかもしれませんね。きっと
中学校時代
では、中学生時代はどうでしたか?
「大きな声じゃ言えないけどね…」
と一瞬いたずらな表情を浮かべ、
「硬派でね…」
と笑顔の越知先生です。
「学生服の裏に龍の刺繍がしてあるような服を着て、遊んでばかりで、勉強よりも、そっちをがんばってたかな?
毎日を楽しく暮らしていければ、それが一番!と思ってた時代だよ。
僕のおじいちゃんとおばあちゃん、小児科医なんだけど、忙しい中でも、よく家族と一緒にご飯を食べていたんだ。
そして、その後にね、おじいちゃんとおばあちゃんは往診に出ていくんだ。往診先のお宅で、お子さんが亡くなったこともあってね
一家団欒で食卓が囲めること、楽しく過ごせることって有り難いことだ、本当にいいことだなぁと思ったよ。
当時は自分が楽しく暮らすことが一番!と思っていたからね。
とにかく、おじいちゃん、おばあちゃんは『一生懸命に診てた』その姿が今も忘れられないなぁ
小さな町医者だったけど、すごいなぁと、ずっと思ってるよ」
高校時代
高校時代はどうだったのでしょう?
「とにかく中学で遊びが中心の生活だったからテストの点が良くても内申が追いついていかなくてね…」
と、苦笑しながら続けます。
「だから、志望していた高校には行けなかったんだよね。
名古屋にあるミッション系の男子校へ進学したんだけど、
多感な年頃に聖書を学んだことはよかったと思うよ。
見るものがみんな新鮮だったしね、教会もキレイだし、礼拝なんかもすばらしかった。
クラブも聖書研究会に入ってね、聖書に書かれていることも、とても興味深く読んだよ。
志望校に落ちるという挫折感も味わって、その学校に入っている人たちには負けたくないと思い、高校では必死に勉強をした。その時にオヤジに言われたのが『一番になれ!』ということだったんだ。
『どんな世界で暮らしていくにしても、その世界で一番になれ!』って。
これまでの自分が、どんな風にオヤジに映っていたのか、
どんな世界を思い描いて一番になれ!と言われたのか、今思うとね」
と、当時をちょっぴり神妙に振返りました。
何になろう?
さて、高校時代ともなれば、誰でも進路を模索するとき。やはり、越知先生が医師になろうとしたのは、家系ゆずりだったのでしょうか?
「小さい頃から医者になろう!って強く思っていたわけじゃないけど
オヤジもおじいちゃんも医者だったから、その背中を見続けてきたんだろうな。
だから、医者になるのは、なるべくしてなったという感じで、自然と言えば自然な流れだったんだろうね」
そうして大学も地元で…と、名古屋保健衛生大学に進みました。その大学で強まった思いは何かありますか?
「自分も大人になっていく中で、女性のからだが男と違うことを痛感したね。女性と付き合うということは、その身体までを守る意味があると…」
ちょっと硬派に、そして照れくさそうに話す先生。
何科の医者になろう?
そうして大学で医療を学び始めた越知先生ですが、 医局を選ぶ時に、目指す診療科目で悩んだといいます。
「当時、腎臓移植がはじまったばかりでね、そのこともあって泌尿器科に行こうかと考えていたんだけど、甲状腺にとても興味があったから、悩んだね。
甲状腺を外科からも内科からも診ることができる専門医になりたいとも思っていたんでね。
それで、あれこれと迷っているときに、オヤジに『とりあえず産婦人科に行ってみたら?』と言われたんだ。『産婦人科は外科でもあるし、内分泌もあるし、いろいろ診ることができる。甲状腺を診るのに似たところもあるだろう!』って。今から考えるとオヤジは産婦人科医だもんな、はめられたよな(笑)」
と、思い出したようにちょっぴり嘆きました。
産婦人科でも不妊を選んだのは?
「僕らの時代、『産婦人科の王道は産科の周産期と婦人科である腫瘍』と言われていたんだ。
それで僕も無痛分娩をテーマに学位をとったんだ。だから、はじめは周産期をやっていたんだね。
でも、そこから産婦人科医として、より専門性を追求したとき、腫瘍でも周産期でも、やりたいという人は結構いたんだ。
ところが、不妊症は誰も手が挙がらないような状況でね、それなら、僕がやろうと思ったんだ」
その当時の不妊治療は、なんと、採卵から胚移植まで実に一週間もの入院が必要な時代。
まさに日本初の体外受精の成功が、東北で一件目を刻んだ創世記の頃に、越知先生もスタートを切ったわけです。
「その頃からずっと今まで、不妊治療一本でやってきたよ、僕はね!」
医師の中には、大学で学問的に研究を重ねながら診療し、不妊治療を学んできた者もいれば、目の前にいる患者さんを日々診療して実践の場で研究を深めていく医師もいます。越知先生は、どうでしょう?
「実践で得た知識とその知識から、生きたノウハウがあるのが僕の不妊治療なんだよ」
と力強く答える先生。越知先生は、大学では医学の基礎、産婦人科の基礎、また、周産期医療の現場などから産婦人科医療を研鑽してきました。そして不妊治療に関しては、目の前にいる患者さんを診ながら、自らの不妊治療を確立してきたタイプの医師です。先生にとっても、一歩ずつ着実に実績を積み、成績を上げていく努力の時代でした。
「僕が不妊治療をはじめてからしばらくは、今とは違って“刺激周期での体外受精”をしていたんだよね。
そこで、何人もの患者を診ていて、“何かが違う!”と思い始めたんだ。」
その『何かが違う』という気づきが、現在に続く診療への大きなスパイスになりました。その何かとは一体何か?
それは『からだへのリスクが高いこと』だったのです。
「実際に排卵誘発をして、卵巣過剰刺激症候群になって、腹水が溜まり、胸水が溜まり、苦しそうにしている患者さんを目の前にして、『死んでしまったら、どうしよう?』と怖いときも随分あったよ。そして思ったんだ。患者を危険な状態にして、赤ちゃんへとつなげようとするのは、命を危険にさらして、新しい命へつなげること。それは違うだろう! と。そこからいろいろと勉強して低刺激で排卵誘発する方法を学んだんだ。それで、とってもいい卵子が採れることもわかったんだよ」
…当時は刺激と低刺激とが半々くらいだったそうです。
自分の方法で、自分の力で
ところで、越知先生は、はじめから自分のクリニックを持っていたわけではありません。
病院に勤めていた時期がありました。すると、その病院の院長の方針、病院の予算などが絡み付き、やりたい医療ができないことも出てきます。
そのような状況では、自分の思いや現場、研修で得た知識も技術も十分に発揮することができません。
治療方法や技術のクォリティー(品質)を上げるために、また、新しい方法を導入するために、新しい人材や機械が必要になりますが、それがすぐに融通されるわけではありません。
そんな現状から、また一歩前進。
『自分のやりたい方法で 自分でやる!』『自分の欲しい機械を 自分で買う!』
この必要な医療をしたいという気持ちが積み重なって開院を実現したのです。
お父様も言っていた『一番になれ!』の言葉。
そして、越知先生が相談した先輩からの「人のふんどしで相撲をとっていても、横綱にはなれないぞ!」の言葉。「やりたい医療は、自分の力でやるしかないんだ!許可が下りないから、予算が降りないからって、首を傾げて、それでいい、仕方ないって思ってしまったら、必要なことはできないんだ!」
おちウイメンズクリニック開院
少しの不安を抱えながら、開院をします。
「もちろん、今まで以上の医療を提供する覚悟もあった。
そのために前の病院を辞めてから開院するまでの間、加藤レディスクリニックで寝食を忘れるくらい必死になって勉強したんだ。
『開院するからには、これまで以上の医療と技術を提供しなければならない』という強い思いもあったし、
『今まで以上の医療と技術を期待する声』もあったから本当に必死だった。
その結果、多くの患者さんが来てくれた。そして、さらにそこからいろいろなものを培ったよ。
その間、ずっと支えてくれた加藤先生には、深く感謝している…。
それにも報いなくちゃいけないと心底思うんだ。それには、一生懸命に患者を診ること!
『他のクリニックでは許されても、自分のクリニックでは許されない』と思っているし、最高のものを提供したい。
赤ちゃんが欲しいと頼ってくれるご夫婦の、その思いに応えなくちゃならない。そう思って必死だった。
でも開院してからは、スタッフみんなで頑張っているという一体感はあったけれど、とても苦しい現実だよね」
熱く語る越知先生。その『とても苦しい現実』とは?
安心できる妊娠、安心できる出産
そこに不妊治療の一つのポイントが見えてきました。
越知先生のクリニックは、開院してからは自然周期採卵を主軸とする高度生殖補助医療(体外受精など)を行う治療施設として活躍しています。
開院の当時から進めていた単一胚移植…それは、双子を回避するためのもの
「僕は、ずっと周産期も診てきたから、出産の大変さもよくわかっている。
双子を妊娠すると、母体にも胎児にも負担が大きくなるし、危険も高くなる。
赤ちゃんを授けるための治療なのに、お母さんや赤ちゃんが危険にさらされるのはいけないことだよ。
それは、治療以上に、患者さんやそのご家族が辛い思いをすることにつながるからね。
僕は、3 回の母体死亡を経験した。
日本は世界的には周産期死亡率が低いことで評価されている国だけど、それでも、女性が出産をするときには危険はあるんだ。
僕が見た母体死亡というのも、妊娠高血圧症候群で分娩時の脳内出血や常位胎盤早期剥離、HELLP症候群の発症での急死というもの。
産科医がどんなに管理していてもなかなかゼロにはならないものだよ。一度は、ご主人に胸ぐらを掴まれたこともある。
一生懸命に診たけれど、今になって妊娠中の細かな管理から最新医療で考えれば、何か助けられる手立てはあったかもしれない。
そうした事例もあるから、安全を重視しなければいけないんだ。
それを考えれば、不妊治療での多胎とか双子はね、相当、母体には危険なことなんだ。
だから、妊娠したい、させたいという思いが強くても、双子にしちゃいけない。
その状態で『はい!』と周産期の先生に患者さんを渡しちゃいけないんだよ。だから『単一胚移植』なんだ。
1人を妊娠して、1人を出産する。人間の子宮はもともと1人用で、2 人、3 人用じゃないんだよ」
そこから自然周期採卵へもつながっていきます。
「移植胚数が1つなら、そもそもそんなにたくさんの卵子を採る必要もない。
たくさんの卵子を採るためには、たくさんの排卵誘発剤が必要になるから、
今度は卵巣過剰刺激症候群などの危険にさらされることも増えるよね。
『からだに負担をかけずに、危険にさらさずに、お母さんになり赤ちゃんを抱く方法』
『不妊治療は赤ちゃんを授かるための治療』
それが、『自然周期採卵-単一胚移植』なんだよね」
越知先生の不妊治療への思いや診療方針がこれで理解できました。
苦しい、そして、辛い…!
「でも、毎日、苦しんだよね…」
越知先生が、一瞬天を仰ぎ見るようにして、そして、力を落として呟きました。
実際に患者さんが来てくれ、スタッフにも恵まれ、誠心誠意、患者を診て、信念ある診療を毎日つづけていれば、苦しくて辛いことなど、何もないのでは? と考えるのですが、ここに不妊という微妙な診療ゆえの思いが加わります。
「患者さんに、妊娠反応がでなければ申し訳ないと思う。また、胚盤胞にならずに移植がキャンセルになれば、それも申し訳ないと思う。本当に苦しい。正直、辛い。
妊娠して卒業していく方よりも、いいことよりもこうしたケースの方が多い。
結局、その苦しくて辛い思いをしたくないから、日々を頑張っているのだと思う。
妊娠しなければ、患者さんは、とても辛い思いをする。
僕は、そういう思いを患者さんにさせたことを辛く思う。それがストレスになってくるんだ。
そこからまた、なにが? どこが? と、考えて、見直して、また考える。
妊娠につなげたい!患者さんに辛い思いをさせたくない。
患者さんに辛い思いをさせたことで、自分も辛くなる。
だけど『妊娠できなかったこと』『胚盤胞にならなかったこと』を患者さんに告げるのは、自分の役目だと思っている。
他に医者がいても、こういった辛い話は、僕自身がするようにしている。
一番辛いのは、胚盤胞にならずに移植がキャンセルになること…かな。
移植のチャンスさえ与えることができなかったわけだから。それは、僕の責任だから、ちゃんと患者さんに伝えないと。
診察室に行く前に、トイレに行ったり、お茶を飲んだりして時間を稼ごうとしたい時もある。ときどき逃げたくなるよ。
でも、妊娠できなかったこと、胚盤胞にならなかったことを『だって仕方ないじゃない』と思うようになってしまったら僕は医者をやめようと思ってる」
辛い思いをしたくないから
越知先生は一生懸命に考えつづけています。
『なぜ妊娠できなかったのだろう?』『なぜ胚盤胞にならなかったのだろう?』
そこから
『何かできることがあるんじゃないのか?』『もっとベストな方法は何だろう?』
と必死になるのです。そうして、自分が必死になるからスタッフに強く当たることもあるようです。
「もし、この業界で本当に、本当にいいと考えられる治療を誰かがしていたら、それが誰であっても教えてもらいたい…」「僕は、土下座してでも教えてもらうよ。いい格好なんてしていられないよね。だって、それは患者さんのためだし、辛くさせない方法になるんだから。いい卵子が採れなければ、妊娠は難しい。だから、いろいろな方法を探して、見つけようと頑張るよね」
それはまぎれもなく、医療で一番へと勝負する越知正憲のハートです。
医師の心
「医師だから、医学から精神を反らすことはできない。
不妊治療で、食事療法がいいとか、ダンスがいいとか、そんなことで、本当の意味で高度生殖補助医療を必要とする女性が、妊娠できるわけがないんだよ。僕は、そんな言い訳なんてしたくないんだ!言い訳じみた治療はしたくないんだ…。
そもそも不妊治療、生殖医療にゴッドハンドなんてあり得ない。
神の領域まで借りて我々がすることは、尊いものへの安全で、倫理ある技術なんだよ」
そして、おち夢クリニック名古屋
そこから、クリニックは新たなステージへと進みます。おち夢クリニック名古屋の誕生です。
「クリニックにはノートがあって、いろいろなことを患者さんが書いてくれている。赤ちゃんが生まれた方からは、写真やお手紙も届く。妊娠して卒業していく患者さんがいる。それは、とても嬉しい。
でも、目の前には妊娠できずに辛い思いをしている患者さんがいる。
出産して、赤ちゃんの写真を送ってくれる患者さんがいる。
それは、本当に嬉しいことです。
でも、目の前には胚盤胞にならずに辛い思いをしている患者さんがいる。
だから、赤ちゃんが生まれたという喜びの声や、クリニックノートにある励ましや体験談を表に出そうとは思わない。
患者さんをコマーシャルの道具のようには思いたくないんだ。
妊娠できずに辛い思いをする患者さんが目の前にいる。
やらなければいけないことは、いつでも目の前にある。
それに日々、向き合っていくこと
…やっぱり僕は、辛いとか、苦しいとか言いながら、好きなんだよね、この生殖医療が…」
「人間なんだからプロトコールなんてありえない。だって、それが人間なんだよ。
だから、さまざまな工夫や試行錯誤を重ねて、それを日々の診療に活かして行くしかないんだ!」
生殖医療が好きなんだ…と言った、その後に
「今は、バリバリとがんばるよ。僕も年齢を重ねて、今のようにバリバリは働けなくなる時がくるだろうけど、そうなったら、こじんまりとしたクリニックでじっくりと丁寧に1人1人を診るよ。
でも、今は、1人でも多くの方を診たいと思う」
と、決して自分の力を誇示するのではなく、淡々と語りました。彼は、現状にひたむきに向き合いながら、これからもずっと、日々の診療を重ねていくのでしょう。明日も、そして、明後日も。